童話五題 人魚姫


少し浮かれていた。
彼が海に行く、と約束をしてくれたから。
そして、その当日の朝だったから。
……自分の甘さを、忘れていた。

本当の愛

――ガシャン。
そんな呆気ない悲鳴で最期を迎えたのは姉が使っていたアンティークグラス。
けれど彼女は一瞥もくれず、空虚な目でこちらを見つめてくる。
…恐ろしい。

「お、おねえさま…っ」
「触らないで」

いくら外見が似ていても、違うものは違う。
私と姉には、天と地以上の差があった。
……私は何度、同じようなことを考えただろう。
思考が別方向に飛んでいるときでも、姉はただただ真っ直ぐ、グラスの欠片で傷付いた手も構わずに私を捉え続けた。
見たことも無い、暗い瞳で。

ぽたり、ぽたり。

そう傷口から血が流れ出ているのに。
…傷が、深い。

「手当て…、お姉さま、傷の手当てをなさらないと…!」

勝手をしているとは分かっているが、その場を離れて消毒液などを用意する。
スリッパでガラスの上に乗ってしまった気もしたが、今は自分のことなど構っていられなかった。
まるで此処に居ないかのように、立ち尽くす姉の横に跪いて消毒をして包帯を巻く。
そうしているうち、不意に彼女が口を開いた。

「あやめ」

首だけを上に向け、目を合わせようとする。
しかし姉は正面を見据えたまま、こちらを見ようとはしていなかった。

「あなた、あたしと成歩堂、どちらを取るの…?」

一瞬、何を言われているのかが分からなかった。
――お姉さまと、リュウちゃんなら。
以前の私なら即座に答えられていたであろう質問に詰まってしまった。

答えは、出ているはずなのに。

「お姉さま、です」
「……詰まったわね」

違います、リュウちゃんよりもお姉さまが、と弁解しようとして止めた。
今何を言っても、きっと彼女には届かない。

「でもね、あやめ。あなたが居ないと、私大変なことになるのよ」

普段の口調ではない、どちらかと言えば私のような自信のない声色。
…駄目だ、お姉さまを一人にしては。
お姉さまは強い方だから、傷付いても誰も気付かない。

そうやって積み重ねられたストレスは、もう限界を超している

「分かりました。私が必ず取り戻します。私が、必ず」

それだけ残し、玄関に向かう。
予定していた時間よりも遅れてしまったが大丈夫だろう。
遅刻はしないはず。

――誰も傷付かないなんて、有り得ない。
それなら、

それなら。








(2008.3.10)
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