もしかしたら、どうしようもない深淵に足を踏み入れたのかもしれない。
――私には、足掻くことすら出来ないけれど。
大切なものと引き替えに
「ちいちゃん」
無邪気な笑顔と共に呼ばれるのは、他でもない双子の姉の名前。
成歩堂龍一と付き合いだしてから一ヶ月。
いつでも笑顔で接してくれる彼に、あやめはいつの間にか穏やかさを求めるようになっていた。
そして、それと同時に。
違う名前で呼ばれる度、胸の奥が小さく痛むようになっていた。
――なんだろう、これは。
もしかして、と頭に浮かんだ感情の名前を掻き消す。
有り得ない。
有り得てはならない。
そう思って頭を振る。
「ちいちゃん?どうしたの?」
「あ、…ううん、何でもないの」
小さく首を横に振ったつもりだったのに、すぐ傍を歩いていた成歩堂に心配されてしまった。
美柳ちなみは隙を見せない人間なのだから、私もそうしないと。
そう気を張っていたのは最初の一週間だけだった。
それを象徴するかのように、いくら計画を練っても最後には彼に掻き回されて、絶対に上手くいくことがない。
……ばれているのか、否か。
分からないが、それは彼の『普通』の行動であるように思えて仕方ない。
「ちいちゃん、大丈夫?」
「……え?な、あ、大丈夫よ」
色々と考えていたら呂律が上手く回らずにどもってしまった。
…不意打ちだ、ずるい。
「寒くなってきたからね。風邪をひかないように気を付けて」
「まあ。それはどちらかと言えばリュウちゃんです。お腹を出して寝ては駄目よ?」
自分でも気付かないうちに頬が緩んでいる。
その事実に気付き、どうしようもなく怖くなった。
それでも笑みをおさめることが出来ずに、ついには二人で笑いあう。
くすくす、くすくす。
自分の楽しそうな声が厭に耳につく。
「さて、そろそろ行こうか」
いつの間にか歩みが止まっていたことに気付いた成歩堂がそう促した。
あやめも今度こそ笑うことを止めて歩き出す。
「ねえ、ちいちゃん」
聞いたことがないような声色で呼び止められ、鼓動が速くなる。
それと同時に、何故か喉の奥が熱くなった。
―――嫌。
姉の名前を呼ばないで欲しい。
私を通して姉を見ないで欲しい。
どうしてそう思うかなんて、簡単すぎてすぐに知ることが出来る。
それでも気付くことが、怖くて怖くて仕方無い。
「ちいちゃん、」
もう話の内容なんて関係なかった。
ひたすら、名前を呼ばれることに耐え続ける。
顔の筋肉が引き攣るくらい、あの余裕のある笑みを作り続けた。
……私には真似出来ても到底似合わない、あの笑みを。
(2008.1.24)